ASEAN創成記

投稿者: | 2015年12月5日

前回、年末(2015年)に発足予定のASEAN共同体の支柱として、APSC (ASEAN Political-Security Community), AEC (~ Economic Community), ASCC (~ Socio-Cultural Community) の三つを挙げましたが、そもそも、ASEANが1967年に結成された際には、そのうちで一番目の安全保障、政治的な理由が強くありました。この点について具体的に見ていく前に、その背景として、ASEANの前身とも言えるような別の機構に関して少しふれておきます。

1. ASEANの前身 - ASA(東南アジア連合)

まず、ASEANの前身として最も近い存在に、ASA (Association of Southeast Asia) があります。この東南アジア連合が結成されたのは1961年ですが、国際的には、それより前から NATO (North Atlantic Treaty Organization) の東洋版とも呼べそうな SEATO (Southeast Asia Treaty Organization) が1954年に組織され、米国や英・仏、豪州のほか東南アジア諸国ではタイフィリピンが加盟していました。この両国と、1957年に英国から独立したマラヤ連邦とで、域内の国々の主導により結成されたのがASAです。

しかし、1963年にマラヤ連邦がサラワク、サバといった他の地方と合わさりマレーシア連邦が成立すると、この連邦内外で摩擦が生じてきます。連邦内では、(以前、マラヤ大学についての投稿で言及した)ブミプトラ政策に象徴されるようなマレー人優先の政治的風潮に対し、1965年、華人を中心としてシンガポールが分離独立します。他方、対外的にも、例えばサバ地方を巡る…いわゆる領有権問題等でフィリピンと対立するなど、前述のASAも自然と機能不全に陥っていきました。

2. ASEANの結成 - バンコク宣言(1967)

そうしたなか、1965年末にフィリピンでマルコス政権が発足すると、サバを巡る対立はさて置き、一定の協調的な面も両国間で見られるようになってきます。続いてインドネシアでもスハルト政権が樹立され、やはりマレーシアに対し敵対的だった前スカルノ政権よりは融和的な姿勢へ転じだします。さらに、このインドネシアに関しては、1955年にバンドンでアジア・アフリカ会議を開催するなど非同盟主義の色合いが濃かった前政権と比べ、スハルト政権では国内の共産党勢力が抑え込まれるようにもなりました。

こうして、ASAの3ヶ国(タイ、フィリピン、マレーシア)に、インドネシアと、独立したばかりのシンガポールも加わって、1967年、非共産主義の5ヶ国によるASEAN(東南アジア諸国連合)結成が宣言されました(バンコク宣言)。とはいえ、シンガポールをはじめ国民国家として始まって間もない加盟国もあり、かつ、かつてタイ以外は全て植民地化された歴史もあって、それゆえに当初は、ASEANを通じて各国の国家主権と、国内の安定を確保しやすくすることが尊重されていきます。

その点、結果的に(?)、戦前より国家体制を保ってきたタイはもちろん、マレーシアでは、UMNO (United Malays National Organization) が与党として長く政権を維持し、また、他の3ヶ国-シンガポール(リー・クアンユー)、インドネシア(スハルト)、フィリピン(マルコス)でも、一人の指導者がそれから数十年にわたり政権を担う形になりました。

 

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