時代に応じた道徳論

投稿者: | 2015年11月25日

引き続き高齢者社会コストに関して書き進めていくと、前回ふれた年金受給の問題以外に、医療費の自己負担割合でも、今の高齢世代、とりわけ70代以上の高齢者は、現役世代と比べてかなり優遇された状態にあります。

具体的に言えば、現役世代なら診療費等の3割を自ら負担して支払うのが普通である一方、上記の高齢者は基本的に総額の1割のみ自己負担となります。このうち70~74歳の人については、原則2割負担へ昨年から変更され始めましたが、それでもなお現役世代より恵まれていることに変わりはありません。

現役世代と違って高齢世代では年金以外に収入の無い人が少なくない、という指摘もありそうですが、その年金からして、平均すれば(将来の高齢世代よりは)今は比較的まだ手厚く、何より、総じて高齢者は資産が潤沢にあります。今や約1,700兆円にのぼる日本の個人金融資産の多くは60歳以上の高年齢層が保有しており、特に、住宅ローンなど負債(借金)を差引いた後の純金融資産では、高齢者による独占割合がいっそう高まります。

個別に見れば、なかには貧困に喘ぐ高齢者もいるにせよ、その点は他の年齢層でも変わりありません。前回、最後に書き添えましたが、いわゆる「シングル・マザー」や、他にも「ワーキング・プア」といった若年層の窮状も深刻です。年齢だけを基準に、一律で高齢者のみ特別扱いする理由は薄弱で、ここでも高齢世代の権益ばかり保護し過ぎと言われかねないでしょう。

 

ところで、日本には、「子供の日」とか「父の日」、「母の日」と称される日がありますが、「祖父の日」も「祖母の日」もありません(海外では、ある国もあるようです)。他方で日本には、それと似た「敬老の日」があります。してみると、子供や、父、母についてはニュートラルな呼称である一方、老人に対してだけは「敬え」と言われる日がある訳です。

もっとも、この「敬老の日」だけでなく日頃から高齢者を敬うよう、日本(および幾つかの近隣諸国)で根付いてきた道徳観があります。そして、かつては、そうすることに相応の意味があったようにも思います。それこそ、昔の農耕社会へ思いを巡らせると、例えば、何十年かに一度の異常気象など、高齢者の経験、記憶を頼りに対処していくような状況が想起されます。既に力も衰え、農作業など普段は役立たずになっていたとしても、あまり老人を邪険にしないよう、人々が生き延びていくための知恵という面もあったのではないでしょうか。

しかし、翻って今日では、異常気象ほか情報や知識は、高齢者よりも専門家、研究機関等に蓄積されています。そうしたサイトへPCかモバイル端末でアクセスできれば、必要なことを誰でも知りやすくなった一方、こうした機器を扱えない老人の方が、かえって物を知らない場合も珍しくありません。それ以外でも例えば、高齢者ほど、公共交通施設や店頭でパネル操作に周囲の手を焼かせたり、他の利用者を長く待たせたりしがちになってきます。さらには、高齢で人並みに自動車等を運転できなくなっていても、(聞き分けなく)自分でできると信じ、結果、老人によって引き起こされた器物破損や死傷事故も社会問題となりつつあるようです。

こうなってくると、それでなお老人をウヤマエ(敬え)と言う方に無理が出てくるでしょう。これまで見てきたように、今日では、老人をウラヤメ(羨め)と言った方がむしろ適当かもしれませんし、それどころか、将来的には、財政の悪化を最も長く放置し続けてきた世代の有権者の責任として、ウラヤマレるより…ウラマレ(恨まれ)かねないほど倒壊した社会が、いずれ到来しないとも限りません。

そうしないためにも(?)、高齢世代におかれましては、自分たちを敬わない現役世代や若年層へ目くじらを立てる前に、ひとまず、例えば選挙等では(自分たち高齢者の私益よりも)大所高所に立って行動したり、あるいはまた、学ぶ姿勢をいつまでも忘れず、新しく世に出た技術、機器への習熟に絶えず励んだりと、率先して自らの襟を正し、敬われるに足る功労者(ここでは、貢献すべく努力を続けている人の意)たらんことを願います。

 

※ 道徳に関しても、昔ながらの観念をただ維持していくべきものではなく、その規範は時代とともに変化していくものである、ということの理解のために、レファレンスとして次の通り挙げておきます: ジョン・ガードナー(2012)『自己革新-成長しつづけるための考え方(新訳)』(矢野陽一朗 訳)英治出版、223~243頁。

 

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