「偏差値」批判と大学生の質

投稿者: | 2015年9月21日

前回の投稿に関連して今回も同様の流れで続けていくと、世間で批判の多そうなものとして他に「偏差値」が挙げられます。「偏差値教育」などと表現してその「弊害」を挙げ、これこそが元凶で、改めるべきだといったような向きもあります。しかし偏差値そのものは、試験等により各生徒のパフォーマンスを測定して、その結果を相対的に数値化したのに過ぎず、良いも悪いもありません。

ただ、そうした批判をする人の言い分として、皆が同じく一生懸命に頑張り、成長してきているはずであって、試験で生徒の出来不出来を明らかにし、差別ないし序列化を助長するようなことがあってはならない、とでも言うかのように、「平等」主義的な姿勢から反対していることも少なくない気がします。

というより、こうした「平等」主義的な考え方が現実にあるからこそ、今のような日本の大学の有り様-少子化の進むなかでも今世紀に約780校まで増え続けてきた大学と、他方、その大学の数に見合った人数の大学生を賄うべく(?)毎年数多く生みだされてきた、低学力の新入生-に至ったのかもしれません。

結果的に、もともと飛び級制度の無かった日本にあって、いくら知的に秀でていても高校を早期には卒業できなかった一方、一定期間の通学等を経て18歳になりさえすれば、学力に難があっても(資金面など他に問題が無ければ)多くの者が「平等」に、横並びで大学へ進学できるようになってきました。

試験により学習の進捗と出来具合をチェックしなくても、日本の中高生は本当に皆よく勉強し、全体的な学力水準も充分に高い、というような状況でもあれば別ですが、実際のところそうでないのは、先だって述べた通り明らかです。こうしたなか「平等」に拘ってみせたところで、それは実状を無視した空想的なものでしかないでしょう。

とはいえ現状では、試験方法・内容に改善の余地が大きいのも、また否定しがたいことです。センター試験や私立大学の入試で多く見られる、単に正解肢を選ぶだけのマーク式、あるいは短答式の試験で成績が良かったからと言って、科目によっては、受験者の記憶力が高そうなことぐらいしか分かりません。

テレビなどクイズ番組の出場希望者の選抜テストならともかく、大学進学希望者向けの試験では、例えば歴史科目で言うと、年号や人名、事件等の名称を覚えているかいないかを問うだけの出題よりも、東大入試の世界史第1問(※)のような論述型の問題を増やすなど、大学生としての適格性を窺える学力試験こそ中心にしていくことが望まれ、その意味では、2020年頃よりセンター試験に代えて導入予定の新試験に期待されます。

 

※ 東大の学部入試については、同学のウェブサイトで直近3ヶ年分が公開されています(英語ほか外国語科目の試験を除く): http://www.u-tokyo.ac.jp/stu03/e01_04_j.html (2015年9月20日 アクセス)

 

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