東南アジアと日本 大学進学への政策スタンス: 学力 (2)

投稿者: | 2015年8月15日

前回は、小学生の間から能力に応じて選別し始め、大学教育にふさわしい学力の生徒が段階的に絞り込まれていくシンガポールの教育をとりあげました。他方で同国では、それ以外の生徒も、職業教育など別の形で就学の機会を得られ、そこで他の能力や技術を磨いて、将来、各々の得意な領域で活躍することが期待されてきました。

結果的に、シンガポールは今やアジアで経済的に最も進んだ国となっており、同様にヨーロッパでも、EUのなかで経済の好調なドイツは、やはり大学進学者の割合が低い一方、職業教育が充実していることまで、ついでに述べました。

 

翻って日本はと言えば、…その前にレビューとして、先日にも述べたとおり、かつては安価に抑えていた国立大学の学費を1970年代から大きく増やしだし、経済面のハードルを引き上げて、それにより、生徒本人の実力は申し分なくとも家庭の資力が低ければ大学へ進学できにくくなってきました。

その一方、(前々から少子化の傾向が既にはっきりしていたなか、逆に)大学の数をどんどん増やしてきたので、当の生徒本人の実力にかかわらず以前より容易に大学へ入れるようになり、能力面のハードルは下がってきています。そのため、高等教育の場たる大学まで、学力の低い学生が増えてきました。

ちなみに、かつて自分が学生だった時分にも、『分数ができない大学生』(※)などと巷で騒がれていた頃があり、当時は「いくら何でも誇張しすぎだろう」と思っていました。しかし後に、例えば切り上げ・切り捨てといった概念さえ理解不足の大卒者と同じ職場になったりして、ようやく実情を知るということがありました。

 

「教育を受ける権利」と言われるものがありますが、私は、小中学校の義務教育ならまだしも、それから先の高校教育、さらに大学教育とまでなってくれば、まず、その教育を受けるのにふさわしい水準へ自ら達していることを、より厳しく本人に求められていくべきだと考えます。

その水準にない者が、なお「教育」を受けたいというのであれば、伝統的な大学教育ではなく、(1)高校なり中学なりで、消化不良になりだした段階の教育を再び受け直すか、あるいは、それよりも(2)シンガポールやドイツに倣い、他の能力、技術へ重点の置かれた教育を受けるようにした方が、未来のためにも-社会レベルでも個人レベルでも-良いのではないでしょうか。

 

※ 岡部恒治, 戸瀬信之, 西村和雄 編(1999)『分数ができない大学生-21世紀の日本が危ない』東洋経済新報社。

 

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