昔、大学へ入って東京で生活し始めた頃、しばしば私は「関西人」と呼ばれた。
「関西人なのに、あまり関西弁が出ないね」とか、「関西人なのに、コメディアンみたいでは…(以下略)」とかいう風に。
ただ、「関西人」とされた私自身、それまで二十年近く関西で過ごしてきてはいたものの、実際に住んで、知っていたのは関西のごく限られた範囲-大阪から神戸へかけてを中心に、そのうち一部の地域だけに過ぎない。
「関西人」と言われてみたところで、いまひとつピンと来ない、妙な感じがしたことを覚えている。
母子家庭だったこともあり、大学を卒業すると企業へ就職したが、後に大学院へ進学し、東南アジアを研究対象とするようになった。
日本を離れて現地に滞在している間、今度は(当然ながら)よく「日本人」と呼ばれた。
とはいえ、関西の一部と東京ぐらいしか…要するに日本有数の大都市圏しか知らない自分にとって、他の様々な土地柄の人と一緒くたに「日本人」と言われ、かつ、それ以外の人々と区別されることには、どこか、しっくりいかない面もあった気がする。
そして、まだまだ数は少ないもののアジアの複数の国を往来するようになった今、いずれ「アジア人」とでも呼ばれる日が来るのだろうか、と未来に思いを馳せている。
だが、例えば国籍など、同一の帰属意識を共有しやすい「日本人」の場合と違い、「アジア人」となると、それだけ広範に連帯感を生み出せるのか疑問が湧いてくる。
これは特に、アジアのなかでも東アジアに限定してさえ、なかなか実現しがたいことかもしれない。
その点、中国や韓国など北東アジアの国とよりは、とりわけ近年注目の集まってきている東南アジアの国々へ、まだ期待できそうに思うが、そう考える理由についてはいつの日か改めて書きたい。